Arrival


メッセージ  (2016年11月)

「メッセージ」は、テッド・チャンの「Story of Your Life」の映像化だ。邦題は「あなたの人生の物語」として早川から出版されている。ということよりも、私の場合、ドゥニ・ヴィルヌーヴの新作ということで劇場に足を運ぶ。 
 
これがヴィルヌーヴ作品と最初に知った時は、意外に思った。ヴィルヌーヴというと重厚なドラマという印象が定着している。「灼熱の魂 (Incendies)」「プリズナーズ (Prisoners)」「ボーダーライン (Sicario)」、みんなそうだ。それがSFも撮るのか。 
 
ところで、今回ヴィルヌーヴのフィルモグラフィを調べてみて、「プリズナーズ」と「ボーダーライン」の間に、「複製された男 (Enemy)」というまったく知らない作品があった。主演は「プリズナーズ」に続いてジェイク・ジレンホールで、それなのに、聞いたことない、こんなの。調べてみると、アメリカでは限定公開で一般公開されていない。たぶんほとんど宣伝もされてないために、私はまったく気づかなかった。「プリズナーズ」公開直後にまたジレンホール主演作ということで、逆にマーケティング的にはマイナスに働いて推されなかったものと見える。 
 
さて、「メッセージ」は、地球上に突如として出現したエイリアンとコミュニケイションを図ろうと四苦八苦する、言語学者のルイーズと理論物理学者のイアンを中心に描く物語だ。果たしてエイリアンの地球に来た理由は何か。資源の発掘か貿易協定かそれとも征服か。世界中がおっかなびっくり見守る中、エイリアンが降り立った各地でそれぞれエイリアンとのコンタクトを図る‥‥ 
 
これまでのヴィルヌーヴ作品とはがらりと趣を変えて、非常にゆっくりと、静謐、とも言っていい感じで静かに話は進む。ルイーズに扮するエイミー・アダムスは、SF系では「マン・オブ・スティール (Man of Steel)」できゃぴきゃぴのロイス・レインを演じていたのが、ここでは成人した娘もいた大学教授だ。一方、相方のジェレミー・レナーは、こちらは「アベンジャーズ (Avengers)」のホウク・アイを演じている。マーヴェル・コミックスとDCコミックスのヒーローの共有が、意外なところで始まっている。DCにジャスティス・リーグがあり、マーヴェルにアヴェンジャーズがある。さらにこれらが融合するのも時間の問題なのかもしれない。 
 
今時、と呆っ気にとられないでもないのは、タコ型エイリアンという、旧態以前のエイリアンがここでも造型されていることだ。正確には8本足のタコではなく、7本足で、しかも常に同じ面を一定方向に向けながら歩くということだから、きっと見た目にはコメディ・セントラルの「サウス・パーク (South Park)」の登場人物が7本足になったような印象を与えると思う。でも、ギャグじゃないのはもちろんだ。 

 

個人的にこれだけは納得し難いと思ったのが、エイリアンとのコミュニケイションをとろうと必死な人類に反して、エイリアン側にその様子がまったく見られないことだ。ここはどう考えてもエイリアンの方が明らかに知性は高い。彼らがその気になって人類とコミュニケイションをとろうと考えるなら、人類がエイリアンのコミュニケイション手段を理解するより早く、エイリアンが人類のコミュニケイション手段を会得できるはずだ。わざわざ宇宙の果てから地球までやってきて、それくらいの労を厭う理由がわからない。 
 
一つ考えられるのは、人類が、末世の警告をしたのにもかかわらずそれを感得できないくらいの生命体なら、滅びて然るべし、あとは見守るだけとエイリアンが考えている場合で、これはもしかしたらあり得ないことではないかもしれない。人 (エイリアン) の忠告聞かないで先走り、むしろ攻撃してくるような生命体には、元々未来なんかない。 
 
滅多にやらないことではあるが、映画を見た後、原作を読んでみた。すると案の定、私が不思議に思ったことは原作ではちゃんと描かれており、ルイーズたちも当然そのことに違和感を持っていた。エイリアンたちはこちらがある程度彼らの言語に習熟してきて質問すると、それに答えてくるが、決して彼らの方から人類の言語を習得しようとはしない。なぜか、みたいなことを、原作ではちゃんとルイーズたちも考えて、その理由もいくつか提示している。ところが映画ではその部分に特に注意を払っているわけではないため、私みたいな観客は、なんでこうなる? と不思議に思うのだった。 
 
原作を読んで改めて映画を思い直すと、たぶんあの幕切れはエイリアンが地球に降り立った理由を説明していることにもなり、そのことは彼らが自分たちの言語を人類には教えない理由にもなりうるという気もする。あんまり詳しく書くとネタバレになってこれから観る人の興を削ぎそうだから避けるが、作り手にとってはあれでどうやら充分と思ってたんだろう。しかし原作を知らない者が初めて観ると、かなり戸惑うと思う。 
 
一方、映画では、文章ではイメージしにくいエイリアンの文字を絵として見せる。これが文章だと、エイリアンの文字は、「まったく文字には見えない。どちらかというと、複雑なグラフィックデザインの寄せ集めに見える。行や渦巻きといったリニアの様式はどこにもない。必要となった多数の表語文字をくっつけあわせて巨大な集合物にしてしまうのだ」、あるいは「奇想天外な、走り書きで描かれた祈りをささげるカマキリのようなもの」、あるいは「黒い蜘蛛の糸がくりだされるように表義文字の網目がかたちづくられていく」と、正直に言うと、どんな形状をしている文字なのかまったくわからない。


それが映像媒体の映画では、そういう形容詞を必要としない。一と目でわかる。ヴィルヌーヴがチャンにその形状について確認をとってないわけがないと思うので、たぶんこれはチャンのイメージにも合致しているに違いない。それとも確認なしの一任か。いずれにしても先に本を読んでいた者は、なるほど、とかなり胸のつかえがとれたのではないか。 
 
映画ではエイリアンが果たして人類に攻撃を仕掛けるつもりがあるのかどうかを確かめることが、重要なプロットになっている。もしそうなら、たぶんにこちらより優れた文明をもつエイリアンが仕掛けてくる前に、こちらの方が先に出て先手必勝で相手を叩かなければ、まず勝ち目はない。エイリアンの言語をマスターするまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。いつエイリアンがその気になるかわからない。やられる前に行動を起こした方がいいのではないかというタカ派の意見が、世界で主流になり始める。ルイーズはそれを止められるのか。というテンションが映画では一つのモティヴェイションになってストーリーをドライヴするのだが、原作ではほとんどそれがない。エイリアンと全面戦争になるかなんて展開にはまったくならない。 

 

いずれにしてもルイーズは、運命を受け入れる。人事を尽くして天命を待つというよりも、事実として運命を受け入れる。描きようによってはまったく未来のない世界にもなりそうなものを、むしろ未来を感じさせる描き方をする原作、ならびにヴィルヌーヴの両者に感心する。それにしてもヴィルヌーヴは、まだまだ引き出しがありそうだ。 










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世界各地にある日突然、半卵状の形をしたUFOが飛来して地上数mのところで静止する。しかしそれらは地球や人類に対してなんらかの危害を与えるでもなく、ただそこに静止しているだけだった。彼らが地球に降り立った理由は何か、彼らに攻撃の意志がない以上、なんらかのコミュニケイションを求めているはず、しかしそのコミュニケイションの手段がなかった。大学で言語学を教えているルイーズ (エイミー・アダムス) に白羽の矢が立ち、理論物理学者のイアン (ジェレミー・レナー) と共に半卵UFOの中に送り込まれ、なんとかコミュニケイションをとる手段の確立を求められる。UFOの内部で、ガラスのようなものを隔てた向こうから現れたのは、タコのようなエイリアンだった。彼らは墨絵のようなものを宙に描く。それは明らかに彼らの文字と思われた。しかしそれが意味するものを、ルイーズとイアンは一から見つけていかなければならなかった‥‥


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