Another Year


アナザー・イヤー (家族の庭)  (2011年2月)

地質学者のトム (ジム・ブロードベント) とカウンセラーのジェリ (ルース・シーン) は、もうすぐリタイアも間近の熟年夫婦。一人息子のジョー (オリヴァー・モルトマン) も一人立ちし、まずまず仕合わせな生活を送っていた。しかしジェリの同僚メアリ (レスリー・マンヴィル) は既に婚期をだいぶ遅れているというのに男運がなく、何かあるとトムとジェリのところのやってきて、愚痴を言った挙げ句、時には酔いつぶれて泊まっていく。しかも実はメアリは密かにジョーに思うところがあったのだが、ジョーがケイティ (カリーナ・フェルナンデス) というガールフレンドを作ってしまったため、内心穏やかではなかった‥‥


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うちからはわりと遠いところで上映している「アナザー・イヤー」を、わざわざクルマを駆って1時間近く走らせても見に行こうと思ったのは、やはり先週見た「アイ・アム・ナンバー4 (I Am Number Four)」が予想以上に子供向けだったせいもあろう。その反動でどうしても口直ししたいと、自分で表面で感じている以上に内心思っていたようだ。


「アナザー・イヤー」というタイトルが記憶に残っていたのは、今年のアカデミー賞でこの作品がオリジナル脚本賞にノミネートされていたからだ。賞自体は「英国王のスピーチ (The King’s Speech)」にもっていかれたわけだが、一瞬さわりを見ただけでも地味っぽさそうだと感じさせる「アナザー・イヤー」がノミネートされているわけだから、できはいいに違いない。


「アナザー・イヤー」は、タイトル通り、ある熟年夫婦のある1年を切りとって描く話だ。特に大きな事件が起きるわけではないが、些細ではあるがそれなりに意味のある出来事は毎日のように起こっている。トムとジェリは結婚少なくとも30年以上にはなるだろうと思える夫婦だ。既に一人息子は成長して家を出て行っている。トムは地質調査関係の仕事に従事し、ジェリはカウンセラーだ。たぶんあと数年したら二人ともリタイアして悠々自適の生活を送ることができると思うが、それまではもうしばらくは我慢して宮仕えの身だ。


そういう、物事の大きな変化とは無縁に近いように見える二人の生活にも日々の変化はある。息子のジョーは新しいガールフレンドを連れて家にやってくるし、二人はもしかしたら結婚するかもしれない。田舎から親しい友人がやってきて食卓を囲むこともあれば、トムの兄嫁の訃報も入る。


しかし一番の問題はジェリの同僚のメアリだ。彼女は酒癖も男運も悪く、時々トムとジェリのところに押しかけてきて散々愚痴を言いまくった挙げ句勝手につぶれたりする。しかもうすうす感づいてはいるが、どうもメアリは一回りくらい歳の差があるジョーに気があるらしい。誰の目から見ても不釣り合いとしか映らないが、果たしてどれだけ本気なのか‥‥


英国の市井の人間を描かせると、マイク・リーとケン・ローチが双璧だ。どちらかというとローチが描く人々は社会の下の方で蠢き、リーが描く人々はも少し上の方でやはり日々の生活にもがいているという印象がある。また、リー作品は、特に事件とでもいうべき出来事は起こらないという印象もある。


むろん中絶補助を副業としている女性を描いた「ヴェラ・ドレイク (Vera Drake)」は決して事件と無関係ではなく、身持ちの悪い女性が過去、自分が産んでおきながら顔も見ずに養子に出した娘と再会する「秘密と嘘 (Secrets and Lies)」も、サリヴァン/ギルバートを描いた「トプシー・ターヴィ (Topsy-Turvy)」も予測不能の意外性に満ちているが、しかし、やはりリー作品というと、私は私小説という言葉を連想してしまう。普段の生活、身の回りの事柄を、丁寧に徹底して掬いとって提出して見せるのが、リーの作品なのだ。


その時、結果として事件性をまとう時もあるが、事件性のないことが事件でもあると言える。ポイントは事件に繋がった、あるいは繋がらなかった事実の積み重ね、日々の生活にあるのであって、やはりリー作品から連想するのは、私小説だ。リーは撮影に当たって徹底的にリハーサルを繰り返すことで知られているが、そのことから来るいかにも自然な登場人物の挙措動作も、そういう印象を受けることと関係あるだろう。


また、こういう演出作法は、リー組とも言えるレギュラーの俳優陣を生む。今回もそれは同じで、主演のトムとジェリに扮するジム・ブロードベントとルース・シーンを筆頭に、レスリー・マンヴィル、ピーター・ライト、オリヴァー・モルトマンといったリー組の面々が顔を揃える。冒頭で顔を出すだけのイメルダ・スタウントンなんて、いくらなんでもたったそれだけか、これなら別にスタウントンを使う必要なんてほとんどないという気もするが、何度も何度もリハーサルを繰り返すリーの演出法だと、経験済みで同じことを何度も言わずに済むリー組を使った方が作業がはかどるのだろう。


今回特に印象が残るのが、主演のブロードベントとシーン、それにマンヴィルだ。ブロードベントは最近もTVのミニシリーズ「エニー・ヒューマン・ハート (Any Human Heart)」で主人公の晩年を演じていたのが印象に残っている。あちらでは晩年に際して気難しく不機嫌になったおやじで、こちらでは、まあ日々の気苦労はあっても穏やかな人のいいおっさんというまったく対照的な役柄で、どちらもうまい。色んなところで重宝されるのもわかる。


ルースもいかにも普通のおばさん然としてうまいものだが、やはり今回おいしいところを持って行ったのは、何をやってもうまく行かないメアリを演じたマンヴィルだろう。いるいる、こういうやつ、誰でも必ず一人や二人はあの子ねえ、と噂になるこういうやつが周りにいる。そういう人物のダメさの描き方加減が絶妙だ。クルマを買っても結局レモンをつかまされ、反則切符もらったり事故るシーンが、描写されるわけではないのにもかかわらず、まるで目の前で起こったように想像できてしまう。


結局、こういう風に一年は過ぎていく。ちょっとした気苦労は絶えないが、楽しいことも事欠かない。メアリは結局新しい男を見つけられず、彼女を見つめるカメラは冷ややかとすら言えるが、しかし、だからといってリーが彼女を突き放して、いい加減にしろよと憤っている風にも見えない。そういう人間もいるのだ。我々はそれを受け入れるしかない。彼女は死ぬまでそういう不幸を繰り返すかもしれないが、それをどう受け止めるかは彼女次第だ。


むろん我々はメアリに対し、いい加減にしろよと最後通牒を投げかけることもできる。温厚なジェリですら、最後はあんたには失望したときつい言葉を投げる。それを最もよく知っているのはメアリ自身だろう。彼女の表情がすべてを物語っている。そこで話の終わるこの物語はアンハッピー・エンドなのだろうか。この突き放し方こそがいっそ心地よいと思ってしまう私が、歳をとったということなのだろうか。








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