A Single Man


ア・シングル・マン  (2010年2月)

1962年。LAで英文学を教えていたジョージ (コリン・ファース) はゲイであり、長年のパートナーだったジム (マシュウ・グード)  が交通事故で死んだ痛手から立ち直れないでいた。ジョージは自殺を決意し、そしていつものように日常をこなしていく。お手伝いや隣家の者と話し、大学で講義し、酒屋でゲイの男から挑発され、異性の友人宅を訪問する。一日の終わりが近づき、そして決行する時も近づいてきたが、そこへジョージの教え子の一人が訪問する‥‥


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この項を書き始めた時はアカデミー賞直前ということもあって、ノミネートされている作品や俳優関係をちょっと押さえておくかと思っていたのだが、どうしても「プレシャス (Precious)」と「クレイジー・ハート (Crazy Heart)」に食指が動かない。前者は何が面白くて家庭内暴力ものをわざわざスクリーンで見なければいけないのかと思ってしまう。巷では現実の事件として毎日のように本物のDVのニューズが後を絶たないのだ。たとえ最後には再生を感じさせるように作っていたとしても、わざわざそれをまた映画でまで追認しようという気になれない。


後者は、私がカントリー・ミュージックにまったく惹かれないため、やはり見る気になれない。カントリーがテーマの映画は一応「歌えロレッタ、愛のために (Coal Miner’s Daughter)」くらいまでなら見ているが、それ以降はカントリーとはやはり合わないという私個人の性向に無理に逆らわなくなったために、近年は音楽、映画、共にカントリーとはほとんど無縁の生活を送っている。主演にノミネートされているジェフ・ブリッジスの音楽の才能は「ファビュラス・ベイカー・ボーイズ (Fabulous Baker Boys)」で確認済みだが、これもなあ。


というわけで、これらの小品が上映されている小さな町の地味なマルチプレックスの、こちらもまたアカデミー賞の主演女優賞にヘレン・ミレンがノミネートされている「ザ・ラスト・ステーション (The Last Station)」と、主演男優賞にコリン・ファースがノミネートされている「ア・シングル・マン」のどちらかにすることにする。


しかしこの2本、実は両方とも予告編を一度も見たことがなく、内容をよく知らない。「ラスト・ステーション」の方は一応チェーホフものということだけは知っていたが、「シングル・マン」の方は、ファースがノミネートされている作品ということ以外は本当にまったく何も知らない。それで結局どちらかにするかは決め切れず、上映が5分違いに始まるこの2本のどれにするかは、劇場に着いてから気分で決めることにしてひとまず家を出る。


結局「シングル・マン」になったのは、これらの4本の映画がほとんど同じ時間に始まるという言語道断の上映時間設定をしていたため、切符の列に並んでいて、早い方の「ラスト・ステーション」にはどうやら間に合わなそうだと判断したからだ。結果的に「シングル・マン」の時間にも間に合わなかったのだが、しかし、こういう時に融通が利くのが田舎の小屋の利点で、まだ切符を買う列がはけていないのに、上映を始めるという無粋なことはしないのだった。早めに来て座っており、映画の後に予定が入っていてよけいな時間はないといらいらしている人もいるかとは思うが、まあ勘弁してつかあさい。


映画はマシュウ・グード演じるジムが、交通事故で死んでいるシーンから始まる。そこへ近づきそっと唇を寄せるのが主人公ジョージを演じるハースだ。このシーンはジョージの想像の世界であり、ジムが死んだのは事実だが、現実にはその場にはジョージはいない。実はゲイであり、ジムと共同生活をしていたジョージは、ジムの家族から葬式にも呼んでもらえず、ジムの死顔すら拝めていない。だからこうやってジムの最期を想像するだけだ。


人生に絶望したジョージは、自ら命を絶つ決心をする。いつもと同じことをし、講義に出、銀行に行って貸し金庫を整理し、酒を買いに行ってハンサムなスパニッシュの青年とやり取りし、そして長年の友人のチャーリーと一緒に酒を飲んでダンスをする。これでもうこの世に何も思い残すことはないはずだったが、そこに現れたのが生徒の一人である美形のケニーだった‥‥


1960年代を舞台に、主人公はインテリの学校の先生、それが世界の不条理に悩むというと、これは即座に思い出すのが昨年のコーエン兄弟の「ア・シリアス・マン (A Serious Man)」だ。おそろしいくらいタイトルまでそっくりだ。世の中にはこの2本を混同している者が300人はいることは賭けてもいい。ただし、むろん似ているのはそこまでで、基本的にこの2作はまったく似て非なるものだ。


方やコメディ、方やスーパーシリアスなこの2本は、実はまったく相容れない。それなのに設定だけを聞くと、へえ、同じ発想で撮ったんだ、なんて思ってしまう。主人公はそれぞれに悩むのだが、その悩み方がまた、物理教師と文学教師らしい。物理教師の方は、世界が理屈に合わない、因果応報が数式のように噛み合わないことがなにより気に入らないが、文学教師の方は、愛人に先立たれたことにより、いかにも文学的に世界に絶望している。


一人は真面目過ぎて、もう一人は一人であることに耐えられなくて世界と相容れない。物理教師の方は、世界が理路整然と数式にのっとって進んでいくならば、妻や家族、愛情はなくてもたぶん生きていけそうな気がする。しかし文学教師の方は、いくら金を持っていていい家に住んでいい飯が食えようとも、愛する者のいない世界に生きている理由を見つけきれない。二人とも似たような黒眼鏡をかけているのだけは同じなんだが。


ファースは黒眼鏡をかけ、60年代にスーツを着こなすと、意外なくらいマルチェロ・マストロヤンニを彷彿とさせる。「ナイン (Nine)」ではダニエル・デイ-ルイスではなくファースを起用すべきではなかったかと思えるくらいだ。その恋人ジムを演じるのは、「ウォッチメン (Watchmen)」でオジマンディアスを演じていたマシュウ・グード。オジマンディアスを見た時もそう思ったが、癖のあるハンサムという感じ。他にジョージに絡む若いケニーを演じるニコラス・ホールトや、カルロスを演じるジョン・コータハリナもやはりそういう印象を受けるから、この辺のキャスティングは監督の趣味だろう。


その演出は、デザイナー出身のトム・フォード。私は知らなかったのだが、1990年代、傾きかけていたグッチをほとんど一人で建て直して巨大企業に変貌させた立役者なのだそうだ。それで巨万の富を得たフォードは、念願だったヴィジュアル・アーツ、すなわち映画製作に乗り出した。それが「シングル・マン」だ。長年暖めていた企画だったのだろう、隅々まで考えられたヴィジュアル、それに当然俳優の着ている服のそれぞれの決まり方は、いかにもデザイナー出身監督の演出らしい。


ところで、上映が終わってロビーに立っていたところ、「プレシャス」もほぼ同時刻に終わり、観客が劇場の中から外に出てきた。黒人の貧困家庭内に置けるDVを描いた作品ということもあり、黒人観客も多かった。そしたら、その黒人観客の一人が、まず、「オレが一生で観た映画の中でサイテーの映画だった」と、いかにも憤慨しているという感じで、ほとんどわめきながら大股で出ていった。次に出てきたこれも黒人男性は、「これは誉められていたんじゃないのか、ビョーキだ」と、やはりボロクソに貶しながら出て行った。


今年のオスカーで作品賞だけでなく、主演女優、助演女優とノミネートされているし、気にはなっていたが、しかし、なんでわざわざ家庭内暴力虐待の映画を見に行かなくちゃならんのかと、ここまで延ばし延ばしにしてきた。しかし彼らの反応を見て、これは見なくて正解かもと意を強くした。要するに真に迫るDV世界を描いた話ではあるが、どうやら救いはなさそうだ。こういう作品を製作して世の中に問う意味はあるのかもしれないが、しかし、私はフレデリック・ワイズマンの「ドメスティック・バイオレンス (Domestic Violence)」で充分と思ってしまうのだった。








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