A.I. (Artificial Intelligence)
A.I. (2001年7月)
A.I. (Artificial Intelligence)
A.I. (2001年7月)
ふと気がついたら、スティーヴン・スピルバーグの「A.I.」の他に、デニーロ主演の「ザ・スコア」や「ファイナル・ファンタジー」等の話題作が既に公開している他、今週から「ジュラシック・パーク3」とジュリア・ロバーツ主演のロマ・コメ「アメリカズ・スウィートハート」が公開、来週からは「プラネット・オブ・ザ・エイプス」も始まる。それ以外にもたけしの「Brother」他、気になるインディ映画もあって、なんだかいつの間にやら見る方が後手に回っている。
面白そうだと思ったら買って積ん読しておける本と違って、映画の場合は公開時期を逃したらヴィデオになるまで待つしかなく、そのうちに旬を逃してしまうし、なんてったってスクリーンとうちのTV画面では、その画質と画面の大きさの点で比較にならない (HDTVが普及するのはいったいいつになるのか)。近年体力が落ちてきて、仕事帰りに映画を見ようという気にはならず、劇場に行くのは週末と決めていたが、これは久方振りに平日も劇場通いしないと、見たい映画はこなせないかも。
ま、とにかくここは今年最大の話題作、スピルバーグの「A.I.」からだ。日米同時公開で既に公開3週目に入る「A.I.」は、日本でも派手に宣伝されているだろうし、見ようと思っていた者は既にもう見ているだろうから、今回はあらすじもなし、ネタバレも気にしないで書こうと思う。これから見る人は見た後に読んで下さい。
「A.I.」は、生前に映像化を計画していたというスタンリー・キューブリックの衣鉢をスピルバーグが継いだ作品である。それだからかは知らないが、「A.I.」にはスピルバーグがSF作品を作る時によく感じられるユーモアとほとんど無縁である。「シンドラーのリスト」や「プライベート・ライアン」のようなシリアスな大戦映画よりも、こちらの方がより重く、沈鬱に感じる。
その理由の第一として、子を捨てるという題材によるものがまずあろう。それに時代の違いも挙げられる。たとえどんなに暗い時代であろうと、過去の事実を基にしている戦争映画は、やはり既に過去のことであり、済んだことである。それに較べて、これから来る未来が明るくないと、段々沈んだ気持ちになってくるのはしょうがない。ラストがハッピー・エンドかアンハッピー・エンドかよくわからないというのもある。ついに母のそばで眠りにつくデイヴィッドを幸せと見るか、あるいはただ不幸を一時的に棚上げしただけと見るかで印象は異なってくる。
特に最後の15分が必要であったかどうかということも意見の分かれるところだろう。海の底で母と見間違う女神像を発見し、眠りにつくデイヴィッド、私はそこで映画は終わりだと思って思わず腰を上げかけた。そしたら、なんとそこからさらに月日が経ってエイリアンまで現れるとは思ってもいなかった。私はスピルバーグの「未知との遭遇」も、エイリアンが登場しない「特別篇」じゃない、それ以前の方が好きだった。エイリアンって、見せられた途端興醒めしちゃうのはなにも私だけじゃないと思うのだが。
しかし、基本的に私はこの映画は好きである。なんか、アンデルセンの書く、登場人物が幸せにならない童話を読んでいるような感覚がある。ちょっと切ないようなあの感覚は、童心を忘れないスピルバーグらしい。その上、的確にツボを押さえる演出は、 いつもながらさすがである。やはりうまいよなあ、この人。「シンドラーのリスト」や「プライベート・ライアン」のような説教くさい作品より、よほど好感が持てる。ちょっと大人向け「E.T.」というのが、最もしっくりする「A.I.」評なのではないか。
しかしキューブリックとスピルバーグが親交が深かったという話も意外な気がする。かたや作家主義の代表、かたや娯楽映画の代弁者みたいなとらえられ方をすることの多いこの二人に、共通点などあまりなさそうに見えるのだが。しかしそう思っているのは外部の人間の浅はかさで、なんでもキューブリックはとにかく人が見たいものを演出することのできるスピルバーグを大層評価していたらしい。キューブリックの方から「A.I.」を撮ってみないかとスピルバーグに持ちかけてきたそうだ。
スピルバーグはこの提案を二つ返事でOK、準備のためにアメリカとキューブリックの住むイギリスを何度も往復して、ほとんど準備万端調えた。そしたら撮影に直前になって、いきなりキューブリックがここまで入れ込んでいた作品を自分が演出することに恐怖を覚えたらしい。もちろん演出家として一流の腕を持つスピルバーグによる「A.I.」は、スピルバーグ流の「A.I.」として完成するだろうが、それがキューブリックが考えていたのとは別物になってしまうことは、火を見るより明らかだ。
先達としてのキューブリックを尊敬するスピルバーグは、そう考えた途端、それ以上前に進めなくなってしまったそうだ。キューブリックに長文を認め、この企画は降りると宣言した。この話がぶり返したのは、「アイズ・ワイド・シャット」撮影後に死去したキューブリックの念願を果たそうと、キューブリックの遺族がまたもう一度「A.I.」の企画を持ってスピルバーグの元を訪れたことにある。キューブリックの遺志を継ぐという新しい名分の元、今度こそスピルバーグは「A.I.」撮影にとりかかることになった。
主演のデイヴィッドに扮するハリー・ジョエル・オスメントは、この役ができるぎりぎりのところだったね。あと半年撮影が遅れたら、子供子供した部分が完全に消えて、もうこの役には無理だったろう。それでも、人間の気持ちを理解することができるロボットなんて、大人でも尻込みしそうな難しい役をこなしてしまうこの少年は、末恐ろしいというか、気持ち悪いというか、微妙に作り物っぽい表情をよくもまあ見事に現すことができるもんだ。数年後にどういう役を演じているのか、非常に興味ある。
また、ロボットのオスメントを主人公にするために、本当の子供を悪役にしなければならないわけだが、そういう子の人選や演出のうまさは、もうスピルバーグの独壇場である。別に本当に悪い子というわけでもないのに、ちょっとした悪意を感じさせたり、また、プール・サイドでの意地の悪いちょっと太った子供たち、といったあたりの人選は、子供の視点というものをよく理解しているよなと感心する。
ロボットのジゴロなんて役を演じるジュード・ロウは、意外にも私がこれまで見て来た中で今回が一番よかった。少なくとも「スターリングラード」よりは今回の方がよかったし、「ガタカ」よりもいい味出してたと思う。ああいう剽軽な演技もできるのか。もっとも私は別にロウのファンというわけではないので、彼の出演作をすべて見ているわけではないが。いずれにしても、俳優のこういう予想もしていない一面を引き出せるスピルバーグの力量の方こそを感じる。
ウィリアム・ハートは、なんで最近彼って見る度にああ沈鬱な表情をしているのか。それしかできないというわけでもあるまいに。「ロスト・イン・スペース」でも全然明るくなかったし、「デューン 砂の惑星」でもやたらと沈み込んだ顔をしていた。SFじゃない「第一の嘘」でも超シリアスだった (ま、あれはシリアスなドラマだったけど)。彼が笑顔を作ると、どうしてもその後ろに実は笑えないシリアスな懸案が山積みになっている、という感じがいつもする。ああ、でも彼は映画デビュー作の「アルタード・ステーツ」でも、考えたら同様の演技をしていた。やはり元々そういう人なのか。でも、こういうSFとは無縁に見える人にSFの出演作が多いのは面白い。
デイヴィッドの母を演じるフランシス・オコーナーは、20年前のサリー・フィールドみたいな感じで、うまくはまっている。なんか、「シックス・センス」で オスメントの母を演じたトニ・コレットにもこころなしか感じが似ている。適度に重要な役ながら、映画が終わってしまうともう顔を思い出せない父親役の人選もうまい。人の選び方一つで、監督の力量って結構推し量れるもんだなということがよくわかる。登場人物とは言えないかも知れないが、テディ・ベアの使い方なんぞは、スピルバーグ以外誰も真似できないものだろう。まさしく「E.T.」なのだが、巨大な月と見紛う飛行船をバックによたよたと走っていくあたりの演出はいかにもスピルバーグで、しかも印象に残る。
廃虚と化したニューヨークのCGも、まあ、最も進んだ技術を採り入れているわけだから当然のことだが、これまでに見た中では最もリアルである。CGの海が本当に海に見えるとこなんか、本当に技術というものは進歩していくもんなんだなあと思う。ただし、海中に沈んでしまった自由の女神は、たいまつだけが水上に見えているわけだが、私の女房はまったく気がつかなかったそうで、映画を見た後で話していて、初めて納得していた。ニューヨークに住んでいる者ですらこれだから、あれが自由の女神だということに気がつかなかったものは結構多いに違いない。そこは実際の寸法は無視して、やはり頭の部分も水の上に出した方がよかったんではないだろうか。