1987年、チェウシェスク政権下のルーマニア。大学生のオティーラ (アナマリア・マリンカ) は、きつく禁じられていて重罪行為の中絶を行うルームメイトのギャビータ (ローラ・ヴァシリウ) に手を貸そうとしていた。しかし自分のことなのに深く考えもせずにその場の思いつきで一時しのぎのいい加減な行動ばかりをとるギャビータのせいで、どんどん事態は不測の方向に回り始める‥‥


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正直言うと、「4ヶ月、3週と2日」がどういう映画なのかを事前に把握していたわけではまったくなかった。しかし正確に覚えていたわけではなかったとはいえ、確かカンヌでパルム・ドールかなんかの大きな賞をとったルーマニア作品ということと、その日付けの数字が並ぶ印象的なタイトルは漠然とながら頭に残っていた。


アメリカでは大概無視されがちな外国作品は、上映されるだけでも非常に高い競争を勝ち残ってきているわけで、それだけで何かしらどの作品も見る価値を持っていたりする。それでほとんど深く考えもせずに劇場に出かけた。それまでに実は一度も予告編を見たことはなく (この映画に予告編というものがあったのだろうか)、ポスターすら一度も見かけたことはなく、そのため実は作品を見るまでは私はほぼ完璧に白紙の状態だった。監督も出演者もまったく知らないルーマニア映画なのだ。時間がタイトルに使用されているところから、たぶんタイム・リミットもののサスペンス・ドラマと勝手に想像していた。


そしたら、確かに時間が限られた中での登場人物の右往左往試行錯誤を描く、サスペンス・ドラマと言えなくもないが、その中身は事前の予想と大きく違っていた。私がこの作品を妊娠中絶を主題にしたドラマだということに気づいたのは、実際に中絶医のベベが登場し、ギャビータに対して正確に今妊娠何か月か、3か月と4か月では中絶の方法も危険率も罪の重さも変わってくると詰問したからで、そこで初めて私はタイトルの意味に思い至った。


上述したように私は、この作品の時代背景や描いているものが何かをまったく知らずに見に出かけた。さらに告白すると、私はこれまで東欧に行ったことがない。それで実は作品の中に現れるルーマニアを現在と信じて疑わず、暖房が完備されているとは言い難い寮といい走っている車といい、人々の家、着ているもの、生活環境等、やはり恵まれているとは言い難いなあと思いながら見ていた。見終わってもこれが80年代のチャウシェスク政権時代を描いていた作品だとは考えもしなかった。誰も携帯持っていないことから近過去の話だとは露ほども考えず、単純に皆生活苦しいんだろうなと思っていた。


それらがすべてカン違いだったことに気づいたのは、アパートに帰ってきていつものようにIMDBで出演者や製作の背景を調べ始めてからだ。アメリカ映画の場合、それがたとえどんな作品であろうと観賞に必要な最小限の情報はこちらが意図していようがいまいが、普通に生活しているだけで耳に入ってくる。ところがそれが外国映画の場合、こちらから食指を伸ばして情報を得ようとしないと本当になんにも知らないままだったりする。おかげでこういう盛大なカン違いをおかすわけだ。


ただし、それはそれとして白紙である作品を見ること自体が観賞の妨げになるということもない。「4ヶ月」の場合、作品はオティーラとギャビータの生活している学校の寮から始まるわけだが、それが寮だということも彼女らが学生ということも、最初の方ではまったくわからない。それを彼女らの交わす会話や視覚情報から彼女らがいったい何者か、どういう舞台設定でどういう状況に置かれているかを予想判別類推し、間違いに気づくとまたそれを再構築しながら見ることになる。


この作業自体は、実は私のような本格ミステリ好きにとってはかなり楽しい作業である。仮説を立て、間違いが証明されそれを壊し、また仮説を再構築する。この場合、自分の仮説が間違いで、新しい、もっと意外な事実が立ち上ってくることこそが快感というのは、ミステリ好きならわかってもらえるだろう。むろん問題は得られたと思った解がまったく間違いだったのに、その間違いをおかしたことを知らないまま終わってしまうことにある。


通常、ヨーロッパ映画というものは観客に対して特に親切というわけではない。常時頭を回転させながら見ていないと簡単に置いてきぼりにされたり話を見失ったりする。だから白紙で見ると、私のようにカン違いが極まると、舞台設定をまったく間違えて理解したつもりになったまま、見終わった後でも気づかないということが起こる。


私なんか、今このサイトを定期的にアップデイトしているのでどうしても人の名前や背景等を事後チェックせざるを得ず間違いに気づいたが、もしそうじゃなかったら永遠に気づかなかっただろう。このサイトを立ち上げる以前に、そうやってカン違いしたまま記憶している映画がいったいどのくらいあるのかと思うと、一瞬そら恐ろしくなってしまった。そういう時は、そういうカン違いや多様な解釈を受容できることこそ傑作の条件といって自分をなだめて逃げるしかないわけだが、しかし、今回は自分でもあまりものカン違いに唖然としたのだった。あれが今のルーマニアだと当然のように思っていたら、そりゃルーマニア人は怒るよなあ。


さて「4ヶ月」だが、主人公のオティーラは時の政府によって固く禁じられていた中絶をする決心をした友人ギャビータを手伝う。少なくとも法律上は二人のしようとしていることは犯罪だ。とはいえ少なくともオティーラはそのことをヤバいことだと気づいてはいるが、表面上は結構ノンシャランに行動しているように見える。当人のギャビータに至っては行動がいい加減で、ほとんど事の重大さに気づいているようには見えない。


特にオティーラを演じているアナマリア・マリンカが、逆境にもめげずにいかにも淡々という感じで行動する。彼女を見ていて私は「Once」に出ていたチェコのマルケータ・イルグローヴァを思い出した。二人とも顔かたちはともかく、逆境に際しても淡々と事実を受け入れ、その時にできる限りの対処をして次に進んでいく、とでもいうような諦観というか飄々とした感じが似ている。たぶん、二人に共通する東欧的なものの考え方のようなものはあるという気がする。


一方、そのオティーラに迷惑をかけるギャビータはいつも自分自身のことしか考えておらず、見ていて腹立たしいくらいだ。こんな女のために協力してやることなんかない、見捨ててしまえとこちらは思っても、結局オティーラはそういうギャビータの面倒を見ずにはいられない。これは友情かそれとも愛情か、それともどうしても弱い立場のものに手を差し伸べないといられないという利他主義的体質か。オティーラは問題ばかり起こすギャビータのために自分も中絶医のべべに一発やられてしまうし、ボーイ・フレンドともうまくいかなくなりそうになってしまう。なんでそこまでやってやる必要がある。


結局ギャビータは、最後の最後まで身勝手でオティーラに感謝の意を表明する素振りなぞまったく見せないのだ。たぶんオティーラはギャビータが妊娠を隠し過ぎて中絶が本当に無理になって産むことになってしまったとしても、協力して子供を育てることに手を貸すか、あるいはそのうち出奔してしまうに違いないギャビータが捨てていった子を自分の子として育てるはめになるに決まっている。ええい、そんな女に手を貸すな、増長するだけだと思ってしまうのだった。


むろん話はチャウシェスク時代の虐げられた人々、特に女性が置かれた厳しい状況を描くものだが、そのことを事前に知らなかった私の目には、作品は女性同士の友情物語として映った。あるいは友情ではなくて二人の女性の相互依存の話と言ってしまってもいいかもしれない。明らかにオティーラのギャビータに対する奉仕は、単に友情というラインを超えている。


他方、二人の関係は同性間の愛情とも受けとりにくい。なんとなればオティーラにはボーイ・フレンドがいるし、そのボーイ・フレンドよりギャビータの方を重要視している嫌いがあるとはいえ、オティーラがギャビータに対して恋愛感情を持っているようには見えないし、その逆もまた言える。さもなければギャビータが誰かの子を身ごもるという展開にはなりにくいだろう。そうではなく、オティーラは誰か自分に寄りかかってくれる、世話をしてやらないといけない人物を自分の方が必要としているように見える。実はギャビータがオティーラを必要としているよりも、オティーラの方がギャビータを必要としているのだ。


オティーラがボーイ・フレンドをおざなりに扱っているように見えるのは、ボーイ・フレンドは畢竟オティーラがいなくてもなんとかやっていけるが、今現在ギャビータはオティーラを世界の誰よりも必要としているからだろう。そのことがオティーラに自分の存在理由を与えている。さもなければあれほどのオティーラの献身が納得できない。いくら親友でも、その友人の中絶の場でその中絶医に身体を任せるという行為は、半分は脅されているからとはいえ、かなり異常だ。ここでやらせてあげることが皆のためになると本気で考える女性がいるとは到底思えない。ギャビータが妊娠期間を偽っており、今中絶しなければ後がないというにっちもさっちもいかない状態であることがわかるのはその後のことなのだ。


中絶するために妊娠期間をごまかそうとする無責任女性よりも、その無責任女性のためにわざわざいけ好かない男に身を任せるという女性の方が、さらに常軌を逸しているために危ない感じがする。その上その後のオティーラの行動は、一面ではギャビータよりさらに性質が悪い。ギャビータは単に無責任で身勝手な頭の悪い女というだけだが、オティーラは自分がしていることが犯罪だと理解しながら手を貸しているからだ。


たぶんオティーラはこうやって自分自身で知りつつも、この後も四面楚歌の状況に率先して身を置いてしまうだろうと思えてしまう。チャウシェスク政権下ということがそういう状況をさらに増長させてしまったのかもしれないし、あるいはこういう人間ドラマはいつの時代にもあり、時代は関係ないのかもしれない。それにしても、昨年の「善き人のためのソナタ (The Lives of Others)」といい今回といい、東欧を舞台とする作品は沈鬱になりやすい。考えれば「ソナタ」もほとんど同じ時代を描いている。この時代の東欧に生まれてなくてよかったと思ってしまうのだった。







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4ヶ月、3週と2日  (2008年2月)

 
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