放送局: FX

プレミア放送日: 6/15/2005 (Wed) 22:00-23:00

製作: ウォリアー・ポエッツ、リヴィール、アクチュアル・リアリティ・ピクチュアズ、FX

製作総指揮: モーガン・スパーロック、ベンジャミン・シルヴァーマン、R. J. カトラー、H. T. オーウェンス、ジョナサン・チン

製作: ブレイク・レヴィン、スバスチャン・ドガート、アラン・ラガルデ、マーク・ランスマン、モニカ・マーティノ、パトリック・マクマナミー、クリス・ニー、フレッド・ピケル

共同製作: トッド・コーヘン、メアリ・リシオ、トッド・ルービン、ランス・ニコルズ、カトリーナ・リクター

クリエイター/ホスト: モーガン・スパーロック


内容: とある誰かを一と月間、まったく異なる環境の中で生活させてみる。


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モーガン・スパーロックが撮ったドキュメンタリー「スーパー・サイズ・ミー (Super Size Me)」は、マクドナルドに代表されるファースト・フードがどれほど人々の健康を害しているかということを、スパーロックが自分自身の身をもって検証して見せてくれた作品だった。


一と月間、一日三食マックだけを食い続けたスパーロックは、体重が10kg以上増えただけでなく、内臓にも異常が見られるようになった。結局、一と月間の暴飲暴食のツケを元に戻すのに半年もかかり、ファースト・フードが健康にとって百害あって一利なしという事実を、自分の身体で証明して見せた。


ドキュメンタリーという分野は、当然対象に密着しないと撮影できないが、こういう、自分の身体を利用したほとんど人体実験的作品というものは、これまでほとんどなかった。実際、スパーロックはほとんど身体を壊す寸前まで行ったのであり、ちょっと間違えると、得たものより失ったものの方が大きいということになりかねなかった。「スーパー・サイズ・ミー」がアカデミー賞のドキュメンタリー部門にもノミネートされるなどかなり注目されたのは、なによりもその突撃精神が評価されてのことだろう。


そのスパーロックがドキュメンタリー/リアリティの体裁で作るシリーズ番組が、この「30 (サーティ)・デイズ」だ。「30デイズ」は、基本的に「スーパー・サイズ・ミー」と同様のことをTVシリーズ化したものと言えるかもしれない。つまり、ある人物にまったく異なった世界を一と月間体験させてみるというもので、この人、やはり身を呈して物事を実践しないと気が済まない性格のようだ。番組クリエイターはスパーロック自身であるが、製作総指揮としてこの世界ではヴェテランのR. J. カトラー (「クリントンを大統領にした男 (The War Room)」) が協力している。


番組では毎回ある人物を、氏も育ちも職も宗教も家族構成も環境も完全にシンクロしない別世界で、一と月間生活させてみる。その番組第一回にスパーロック本人と彼のガール・フレンドが登場しているのは、当然と言えば当然か。もしかしたらスパーロックはすべてのエピソードに登場してみたかったのかもしれないが、それだと1エピソード撮るだけに最低一と月かかってしまう。10本撮るのに1年もかかってしまっては番組が成り立たないだろう。


第1回でスパーロックとフィアンセのアレクサンドラ・ジェイミソンが体験するのは、ずばりアメリカで最も低賃金の生活である。オハイオ州コロンバスという田舎町で時給5ドル15セントという気の遠くなるような安さでレストランでこき使われるスパーロックが、果たしてこれで生活していけるかということを身をもって実践してみせる。一日どれだけ身を粉にして働いても収入はせいぜい50ドル程度で、そんなの、今の東京の高校生がファースト・フードのアルバイトで得る賃金より安い。それなのにスパーロックはこれを本業にして、この賃金から得た収入で家賃を払い、食っていかなくてはならないのだ。きっつぅーっ。


実際、彼が借りたアパートはボロ屋という言葉が相応しく、そういうところでゆとりのない生活を送っていると、段々ガール・フレンドとの仲も悪化してくる。結局ここで得た教訓は、こんなの人間の生活じゃないということだった。とはいえ、たぶんニューヨークでも、チャイナ・タウンとかスパニッシュ・ハーレムとかでは、こういう生活よりまだひどい暮らしをしている違法滞在者が地下に潜っていると思われる。あくまでも今回のスパーロックの体験は、合法の範囲での最低生活と言えるだろう。実はアメリカでは、家庭の年間収入が約2万ドルに達していない「貧窮」と区分される者が、全人口の約20%に上るのだそうだ。上を見れば切りがなく、下を見ても切りのない、貧富の差が激しいいかにもアメリカらしい話ではある。


番組の第2回は、中年にさしかかった男性が一念発起して中年太りを解消し、見かけも内面も若返ろうと努力する話で、第3回は敬虔なクリスチャンの男性が、ミシガン州のイスラム系のコミュニティでイスラム教信者として生活する。第4回はストレートの男性がゲイ・コミュニティで生活し、第5回では現代文明に浸り切った男性が自給自足の生活環境に置かれ、第6回では、ほとんど毎晩パーティ騒ぎで夜の遅い娘の生活を、母親が一緒に体験してみるというものだった。この中ではクリスチャン男性をイスラム世界に送り込む話とストレート男性のゲイ体験、および最終話の母親による娘のパーティ・アニマル体験が面白かった。


今現在、アメリカにおいてイスラムであることがかなり肩身の狭い思いをする理由になってしまうのは、どうしてもある程度は避けられない。アジア諸国はある程度どこも西洋社会とは異なる独自の文化を持っていたりするのだが、それでも、アジアが特にアメリカに対して違和感を持っているかと問われると別にそんなことはないだろう。好きとか嫌いとかいう好悪の感情はあるかもしれないが、それは違和感とは違う。しかし、人種の坩堝ニューヨークに暮らしていても、時としてイスラム文化はよくわからないと思うことがある。


特に、その時何をしていようと馳せ参じる日に何度かあるお祈りは、よくわからないことの典型と言える。クリスチャンが毎日曜の教会の参列をさぼろうとクリスチャンであることを疑う者はいないが、毎日の祈祷をさぼるイスラム教信者はいない。どんなに暑い真夏日でも黒いケープを頭から外さないイスラム女性を見ると、頼むから見るだけで暑苦しいからそれをとってくれと本当に思う。本人たちはもっと暑いだろうに。


とまあ、アメリカ人にとってよくわからない文化のたぶん代表であるだろうイスラムのコミュニティに成人男性が送り込まれるのだが、この男は信心の篤い、毎週の教会行きを欠かさない男であるからして、途方にくれることばかりだ。特に、やはり地面に頭をこすりつけるようにしてお辞儀を繰り返す礼拝はさすがに抵抗あるようで、どうしてもできずに、他のイスラム人がお辞儀しているのをそばで立って見ていることだけしかできない。これはよくわかる。いきなりそれまで一度も経験したこともないほとんど土下座のようなお辞儀をやれと言われても、アメリカ人どころか、日本人だって抵抗あるだろう。


結局その男は、コミュニティの指導者的立場の男性からイスラム社会のものの考え方とか、礼拝の仕方とかをそれこそ手とり足とり教えてもらい、やっと一と月後にはなんとか形くらいは礼拝をこなせるようになる。これまではまったく知らなかったイスラム社会の文化に触れ、それはそれでわりと感銘を受けたり納得したりするのだが、しかし、西洋社会とイスラム社会の和解というか融合というか相互理解は、まだまだ時間がかかりそうだなと思わずにいられなかった。


ゲイ社会に送り込まれる男の話もそれなりに面白かった。ニューヨークには多くのゲイがおり、私にもゲイの知人も多く、ゲイという存在自体についてはほとんど何も感じないくらい慣れているが、しかし、周りの人間が全員ゲイという状態はそれとは違う。私は一度、知人が撮影したゲイの恋愛をテーマにした映画を見に行ったことがあるが、一人で映画を見に来ているのは私だけ、周りはすべて男同士、女同士のゲイのカップルばかりという状態を経験したことがあり、激しく孤立した。針のむしろの上に座っているような気分だった。ゲイのカップルはまず間違いなく人前でも強烈にいちゃいちゃするのでなおさらだ。ストレートの人間がこういうゲイ社会に投げ込まれたら、かなり窮屈な思いをするのは間違いなく、それを外部から見るのはそれはそれで結構面白い見世物であるのは確かだ。


また、6話製作された最終話の、娘が属する一気飲み (アメリカでは「ビンジ・ドリンキング (Binge Drinking)」と言う) カルチャーの世界に身を投じる母親というのもかなり面白かった。私も当然経験があり、今考えるとなぜあんなバカらしいことをしていたのか自分自身でもよくわからない一気飲みカルチャーというものは、当然アメリカにもある。若い者がいる先進諸国にはどこにでもあるだろう。アルコールを飲んでドンちゃん騒ぎたいというのはまあわからないではないし、若い男性の立場から見ると、女の子にたらふく飲ませて潰してどこかに連れ込んでしまえという下心が大きく働いているのは、これはもう火を見るより明らかだ。


このエピソードでは、娘がほとんど毎夜パーティでべろべろになって酔っ払って帰ってくるのが心配な母が、娘を心配して、半分はお目付け役、半分は興味本位で、娘と一緒になって夜毎のパーティでアルコールをがぶ飲みする生活を一と月間続ける。パーティで自分がつぶれたらつぶれたで、反面教師になるという考えもあるのだろう。そして実際つぶれてしまう。パーティの後、リムジンに乗って家に帰るのだが、当然途中で気持ち悪くなり、ドライヴァーに車を停めてと言いながら吐いてしまう。うちに着いたら着いたでふらふらして玄関の鍵を開けることもできない。翌日は当然強烈な二日酔い。しかしそれで母親の仕事が減るわけでもなく、二日酔いでがんがんする頭で炊事洗濯が待っている。


家族でボウリングに行っても、ボウリング場でもがんがん飲みまくる。当然酔ってくるわけだが、まだ10歳くらいの息子は、母親がだんだん別人のようになっていくのが怖くなって泣き出してしまう。いやあ、やっぱり母親という立場で毎日こんだけ飲んでいたら、最終的にはやはり家庭は崩壊するだろうと思わざるを得ない。それなのに娘は、私は自分自身の責任で飲んでいるんだからお母さんは私のやることに口出ししないでという態度を崩さない。親からもらった金で飲んで自分の責任もなにもないだろうと思うのだが、私自身がそのくらいの歳の時にはやはり同じことをしていたと考えると、あまり大きなことも言えない。


要するにティーンエイジャー、特に酒とタバコと車とセックスを覚えたてのハイ・ティーンというものはどこの世界でもバカであり、結局、最終的には自分がどれだけバカかということは、自分自身の身体で経験して覚えるしかない。私だって親の言うことなど聞かなかったし、今思い出すと、今度は顔から火が出るくらい恥ずかしいことを平気でしていたのだが、そんなのその時にはまるでわからないのだ。


とまあ、そういうことをつらつらと考えたり思い出させたりしてくれるこの最終話が、私にとっては一番面白かった。それなりに面白い番組だったとは思うが、番組が第2、第3シーズンと続いていくためには、このように人々が興味を示すような別世界体験のアイディアを、途切れなく提出し続けなければならない。これは実は簡単なことではないだろう。すぐにネタ切れになって、同じテーマで今度は人を代えて繰り返すということになりかねない。というわけで、「30デイズ」の第2シーズンがあるかという点については、私はかなり疑問に思っている。


実はこういう、参加者、もしくはホストに別の人生を体験させてみる、なんていう番組は、スパーロックの登場を待たずとも、最近ちらほらと見かけるようになっていた。昨年だか、タイトルは忘れたがナショナル・ジオグラフィック・チャンネルが都会の家族をアフリカやアマゾンの密林に送り込む、なんて番組があったし、勝ち抜きリアリティ・ショウなんてのは、多かれ少なかれすべてそのような要素を持っている。ネットワーク番組でこの種の傾向を最も色濃く見せているのは、ある家庭の主婦を交換してみたらどうなるかを実験してみた、ABCの「ワイフ・スワップ」とFOXの「トレイディング・スパウスズ」だろう。


ケーブルでも最近ではディスカバリーの「ダーティ・ジョブ (Dirty Job)」なんか、ホストに様々な危険、きつい、汚い3Kジョブをやらせるというやつで、かなり「30デイズ」と似たような傾向を持っている。番組では汚水掃除や深夜のゴミ収集、果ては馬の精液集めなんて、確かに普通の人なら嫌がりそうな仕事ばかりホストに押し付けていたが、それを素人にやらせてみることができれば番組としてはもっと面白くなっただろうにと思ってしまうところが、今一つと思わせる点になっていた。今後も、この種の知らなかった世界体験ものは、リアリティ/ドキュメンタリーの一ジャンルとして根づくものと思われる。






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30 Days

30デイズ   ★★1/2

 
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